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​​​上田山正圓寺概要

概要: ようこそ!

江州馬淵縄手御僧塚縁起

近江國蒲生郡馬淵縄手の御僧塚と曰へるは住連坊、安樂坊の墳墓なり 黑谷の先德、法然上人始めての念佛の一門を開き一心專念の義を弘め玉ふ、世普く之にこぞり人悉く此れに歸しき上人の上足の弟子に住蓮坊、安樂坊と云へる僧あり 住連蓮坊の俗姓は伊勢次郎左衛門淸原信國と曰ひ安樂坊は京都押小路外記入道師秀の子、師廣と名く京洛東山の鹿ケ谷にて別時念佛を修し六時禮賛を勤めけるに其音律哀歎悲喜いと貴かりければ道俗多く來集し隋喜賛嘆の輩其數を知らず

其頃人皇八十二代後鳥羽院建永元年十二月熊野に御幸し玉ふ 主上御寵愛の松虫鈴虫となん曰へる女官ひそかに鹿ケ谷へ參詣し女人成佛の尊き御法に會ひ光明到達せしや發心髴髪して名も妙貞松虫妙智鈴虫と改め佛弟子とは成りぬ 帝還幸の後之を聞召大に逆鱗なし玉ふ 時恰も念佛門興隆し聖道門廢退す 以此興福寺の學徒念佛門をおとしめんとて太上土御門院に奏達す 然れば遂に路次往返高聲念佛を停止し剩へ上人を流罪に處せんとす 依て上人は暫く小松たに法性寺の小御堂に閉居し玉ふ

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概要: 概要
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住蓮坊安樂坊は上人へ參り歸坊の途次五條内裏の門前にて念佛停止の高札を見忽ち聲を揚げて云く 輪王の位高けれ共七寳久しく止まらず 天上の樂み多けれ共五衰早やく現じける 南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と高稱せしかば禁制を犯せし罪にて捕られ直に近衛の西の獄に投ぜらる 建永二年住蓮坊安樂坊は獄吏に向ひ吾等步期に及んで何の言條あるべきや 唯念佛の爲には命を惜しまず 末世の爲に身代と成るべしとて專ら稱名して余言を雜へざれば遂に獄吏秀能に命じ六條河原に於て死罪に行はる

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安樂坊と其場に臨み日禮賛を誦し西に向ふて合掌し「極樂へ參らん事の嬉しさよ身をば佛にまかせぬるかな」と一首の歌を詠じ哀れや劔の光に任せ遂に念佛の息絶え終ぬ、亦住蓮坊は佐々木吉實に命じ馬淵縄手に於て死刑に處せられる もとより覺悟の上なれば西に向ひて端座合掌し一首の歌を詠み「此程のかくし念佛現れて彌陀に引かれて西へこそ行け」念佛數百遍不思議の往生遂げ玉ふ 時に承元々年二月九日なり

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其折二人の遺屍を此の地に合葬し御僧塚と曰ふ 其の後三十年を経て經て一宇の坊舎を建立し安樂寺と云ひ蓮池を掘り住蓮池と名けしが正慶年中火災に會ひ烏有になりぬ 元禄二年の秋村民擧って其の德を追崇し法會供養せし事あり 今に到るも死刑場、首洗池其側に存在す

猶當寺は二僧の木像古より安置し居れり凡そ四百有余年なり

慶安三庚寅四月一八日
近江國蒲生郡金田村上田
上田御坊正圓寺 記録

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​​正圓寺縁起

旧 近江国上田邑 建暦年中(1210)佐々木左衛門五郎と申し者観音寺城内を退き良き土地と見立てて当所に移住 最勝なる田地故 上田邑と号し之を己の氏となし領する所方十八町に渡り親族繁栄す 上田氏左衛門五郎正利と時の帝より姓名を賜り代々邑を相続す

 正圓寺は金田村大字上田に在り 眞宗興正寺派なり 文正元年二月僧光專創立し享保六年三月淨敎の時寺觀を改めたり依て中興と稱す 當寺に隣寺西常寺と組合保管の十字名號あり 紺紙金泥にして古へより怨敵退治の尊號と稱す

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 毎年兩寺共同にて夏中法要を營む例あり 慶安三年四月の縁起によれば嘉禎元年秋親鸞聖人関東より上洛の時馬淵縄手に在る安楽坊の墓を吊ひし時信城寺に入りて休憩の時揮毫して興へられしと見ゆ 信城寺は當寺の前身にして天台宗なりといふ (蒲生郡誌 寺院誌 寺院由緒)

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