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上田山正圓寺資料調査
調査日:令和2年6月30日
調査者:山本泰一、山本順也
名称 木造如来形立像(伝阿弥陀如来立像)
員数 1躯
種別 未彫
所在 上田山正円寺(興正派)
年代 平安時代
法量 像高88.5 頂-顎15.1
構造
針葉樹材、一木造、内刳なし。頭体幹部および両上膊部まで一材。木心を右前方にはず
形状
腹部を突き出す。背面は扁平につくり、体躯の厚みを薄くする。
状態
螺髪·眼 両耳·鼻·裳裾および両腕先 両足先などの別材部は全て亡失。頭体部全身が炭化する。
解説
正圓寺は西本願寺14世宗主寂如上人(1651~1725)の代に正圓寺の寺号を許可されたという。その後享保6年(1721) 3月に、興正寺御門跡兼帯となり、当寺ではこの年を中興としている。本像は、正圓寺縁起によれば織田信長に正円寺が焼かれた際に焼損したものとされる。また正圓寺はもと天台宗信城寺だったとされ、焼き討ち後に草戸庵という道場が建てられ、これが寂如の代に正円寺となった。焼き討ちに遭う以前は寺地も現在地ではなく篠田神社の正面向かい側(現在畑地となっている)にあったとされる。この縁起からすれば、あるいはこの信城寺は篠田神社神宮寺だったとも考えられ る。本像は焼損が著しいため詳細はわからないが、衣文なども簡略的に造られ、全体的にシンプルにあらわされていることから、本来は同社の本地仏だった可能性もある。また、同縁起によれば、本像は天台宗信城寺の本尊阿弥陀如来像だったとされる。こうした寺伝を参考にすると、本像は江戸時代前期に成立した正圓寺の前身寺院の名残とも考えられ、焼損が著しいとはいえ、貴重な文化財といえる。なお、縁起には建暦年中(1211~1213)に順徳天皇から、信城寺の住持が「上田氏」の姓を賜り、それが上田村の由来となったというも記され、上田氏(現在は植田氏)および上田村の由来を示しており興味深い記述である。
No.2
名称 木造安楽坊,住蓮坊坐像
員数 2躯
種別 未彫
所在 上田町正圓寺(興正派)
年代 江戸時代 (正品)
法量 (開口像)像高32.8 (閉口像)像高30.3
構造
両像ともに寄木造、彫眼、古色彩色。面部はこめかみ付近を通る線で矧ぐ。体幹部は前後二材とし、背面に一材をあてる。両肩以下別材。腰付近に三角材をあてる。両手臂か ら先を含む膝前材は、両端に小材をあてる。両手首以下別材。
形状
両像とも合掌して数珠を持ち、大和坐りとする。僧衣を着し、袈装をつける。
状態
開口像は左腰の一材および三角材を亡失する。両像とも体幹部後ろ材の像底中央に錐穴痕がある。開口像の像底膝前材に墨書があるが、古色彩色を施しているため判読困難。(開口像墨書)「■■五年■月七日/■■■■/■■新祐作」
解説
先代住持の時代に、仕舞われていたのを見つけ祀ったという。当時木箱に納められ、箱 解説|書きに安楽坊,住蓮坊との記載があったとのことだが、現在木箱の所在は不詳。現状で はどちらが安楽坊、住蓮坊かは不明。
No.3
名称 正圓寺緑起
員数 2通
種別 未書
所在 上田山正円寺(興正派)
年代 明治時代
法量
構造 内容の詳細は別紙参照。
解説
正圓寺に伝来する同寺および焼損仏の縁起。二通あるが(便宜上の①、②とする)、若干記述に異なるところもある。大要は、かつて上田の地に天台宗信城寺なる寺院が所在し、ここに本尊阿弥如来像が安置されていたという。親響聖人が関東より上洛した折、住蓮坊·安楽坊の墓所に詣でたが、この時阿弥陀如来が夢想に顕現したという。やがて織田信長の焼き討ちにより信城寺は消失し、本尊阿弥陀仏像も焼損した。これが今の焼損仏である。その後、佐々木一族の塚根源左衛門尉が草戸庵を開き、信城寺の焼損仏などをこの庵に納めた。さらに蓮如が金森(守山市)に来た際、当時の草戸庵住持が帰依して改宗し、正圓寺と改めた。ただしここでは信長と蓮如の時代が錯綜している。①では信城寺本尊阿弥陀如来を聖徳太子の自作とし、②では親鸞聖人の自作としている。また、①には建暦年中(1211~1213)の帝(順徳天皇)から、信城寺の住持が「上田氏」の姓を賜り、それが上田村の由来となった記述がある。
さらに草戸庵の改宗にかかわる部分で、①が蓮如(1415~1499)の時代に改宗して草戸庵を正圓寺と改めたとあるが、②では正圓寺への改名はその後の寂如上人(1415~1499)の時代とする。寂如は本願寺第十四世宗主で、在位期間は寛文二年~享保十年(1662~1725)で、直接現在につながる正圓寺の成立時期が、江戸時代前期頃となる。さらに享保六年(1721)3月に興正寺門跡の兼務となったとあり、現在ではこの年をもって中興としている。
本縁起の性格は、末尾に「只今御縁起を聴聞した通り~」とあるように、他者に読み聞かせるもので、そのための原稿ということになる。送り仮名がカタカナで記されていることからも読み上げるための文章といえよう。文体などから明治期のものと考えられ、こうした縁起は通常、歓進活動に用いられるものである。これは寺社などの再建建立などの資金集めが目的で、担当者らが手分けして各地を回り、人の多いところで出開帳し縁起を読み上げ、寺院の由来や霊験に感じた聴衆らが寄付金を出してくれるという仕 組み。かつては勧進聖とか勧進僧といった専門の宗教者が担当したが、江戸後期にこれ が禁止され(許可制になり、場所も限られた)、明治期以降は門徒ら一般人があたっていた。
正圓寺縁起
①
【翻刻】
抑モ檀上御厨子ノ中ニ敬ヒ奉ルハ阿弥陀如来ノ尊像ナリ、其昔聖徳太子天王寺御建立ノ砌リ当国瓦屋寺ノ山土ヲ以テ瓦ヲ製シ玉フ頃、今村中トナリシ土地ニ結縁アラセラレ、聖徳太子御製作在シ玉フ阿弥陀如来ノ御木像ナリ、其濫觴ヲ尋ヌルニ往昔建暦年中ノ頃佐々木四郎、佐々木左ヱ門五郎ト云ヒシ者アリ、観音寺山ノ城内ヲ退キ当国能キ土地ヲ見立テヽ移住ス、時ノ帝ヨリ性名ヲ上田氏ト給ハリ終ニ村名トナツテ民家多キ処ニ七堂伽藍ノ一宇有テ天台宗タリシ信城寺ト名ク、即此御木像ヲ本尊ト崇メ奉ル、嘉禎元年ノ秋高祖聖人関東ヨリ御帰路ノ砌リ住蓮・安楽ノ古責ニ謁シ在シ玉フ、聖人御化導ハ太子ノ化義ヲ守ラセラレ、是御木像ハ聖徳皇ノ御自作ナレハ御心ヲ合セントテ一夜有縁ヲ結ハセラレ信城寺ノ住僧へ夢想ノ奇瑞顕シテ御教化在シ玉フモ是御木像ノ御恵ニ其後乱世ノ砌リ織田信長公地領ヲ奪ヒ取ラントテ堂塔伽藍ノ信城寺ヲ一時ニ焼失ス、此ノ御木像モ火難ニアヒ奉リ勿体ナヤ炭ノ如クニ仏体ハ焼残ラセラレ、寺号ノミ寥々トシテ住僧ナシ、今現ニ信城寺畑ト名テ地領アリ、然ルニ上田氏相続スル佐々木ノ末縁塚根源左ヱ門尉ト申ス者アリ、日頃菩提心深ク信城寺破焼ノアトヲ悲ミ肆ニ田宅ヲ開ヒテ道場ヲ建立シテ庵号ヲ草戸庵ト名ク、信城寺焼残リノ仏像経巻等ヲ庵室ニ納メ相続ス、其後蓮如上人金ヶ森ニ御化益ノ頃改宗■願ヒ庵号ヲ改メ正圓寺ト開号ス、夫ヨリ以来当山ノ霊宝ト残ラセ玉フ、聖徳太子御製作ノ仏体ナレハ火中ニ威神力ヲ顕シテ焼残ラセ給フハ末世有縁ノ為ト存セラレ称名モロトモ謹テ拝礼ヲトゲラレマシウ
只今御縁起ヲ聴聞ノ通リ聖徳太子御製作ノ御木像ナリ、高祖聖人関東ヨリ御上洛ノ砌リ此御木像ヘ御拝礼アラセラレ住蓮・安楽ノ御墓ヘ謁シ玉フモ御師匠法然聖人ノ御化益ヲ思召、恩徳ヲ報セン為、然レハ太子観音ノ垂迹元祖勢至ノ御化身ナレハ三尊一仏ノ尊形、在家往生女人往生拠拠ノ為ニ焼残ラセ玉フト存セラレ大切ニ拝礼アラレマシウ
【意訳】
そもそも檀上の厨子の中に安置されているのは、阿弥陀如来像である。
その昔聖徳太子が天王寺を建立した際、近江国瓦屋寺の山土で瓦をつくった。その頃、現在上田村の中にある土地に結縁あって聖徳太子がつくられた阿弥陀如来像である。その始まりを尋ねると、建暦年中(1211~1213)頃、佐々木四郎、佐々木左ヱ門五郎という者がいた。観音寺山の城内を退き、当国でよい土地を見立てて移住した。その時の帝から姓名を上田氏と賜り、それが村名となった。上田村の民家の多い場所に七堂伽藍の寺院が一宇あり、天台宗信城寺といった。ここでこの阿弥陀像を本尊として崇めた。
嘉禎元年(1235)の秋、高祖親鸞聖人が関東からの帰路で住蓮・安楽の古跡に詣でた。親鸞聖人の教えの導き方は聖徳太子のやり方を守っているので、この阿弥陀像は聖徳太子の自作だから心を合せんと一晩有縁を結ばれた。この時信城寺の住僧に夢想の奇瑞が顕れた。この住僧が帰依したのはこの阿弥陀像の恵みである。
その後乱世にあって、織田信長がこの土地を奪い取ろうとして信城寺の堂塔伽藍は一時に焼失した。この阿弥陀像も火難にあい、勿体ないことに炭のごとくに仏体は焼け残った。寺号だけがさみしく残り、住持もいない状態である。今、現に信城寺畑と名付けられた土地があり、上田氏がこれを相続している。
佐々木家の末縁に塚根源左衛門尉という人がいる。日頃から菩提心が深く、信城寺の焼け跡を悲しみ、田宅地を開いて道場を建立した。庵号を草戸庵と名づけ、信城寺の焼け残った仏像・経巻等を草戸庵に納め相続した。その後、蓮如上人が金森(守山市)に教化に来られた時に改宗を願い、庵号改めて正圓寺とした。それ以来阿弥陀像は当山の霊宝として伝えられた。聖徳太子自作の仏像なので、火中にあっても威神力を顕して焼け残ったのは、後世にいたっても有縁のためだと思って称名とともに謹んで拝礼をいたしましょう。
只今御縁起を聴聞された通り、聖徳太子自作の阿弥陀の木像です。高祖親鸞聖人が関東より御上洛した際、この阿弥陀像へ御拝礼され、住蓮坊・安楽坊のお墓へ詣でた。これも親鸞聖人の御教化の利益と思い、恩徳に報いよう。聖徳太子は観音菩薩の化身、親鸞聖人の師である法然上人は勢至菩薩の化身なので、この阿弥陀像とともに阿弥陀三尊一仏の形式である。在家者・女人の往生など様々な衆生のために焼け残ったものと思って大切に拝礼いたしましょう。
②
【翻刻】
当檀御厨子ノ中ニ安置シ奉ル尊像ハ夢想ノ阿弥陀如来、高祖聖人自ラ御彫刻在シタル御木像ナリ、抑モ其濫觴ヲ伺ヒ奉レハ往昔上田ノ里ニ天台宗タリシ七堂伽藍ノ一宇有テ信城寺ト名ク、然ルニ嘉禎元年ノ秋聖人関東ヨリ御上洛ノ砌リ古人住蓮・安楽ハ同門弟念仏停止ノ折柄江州馬渕繩手ニテ死罪ニ行レ玉フ、同門ノ好ミヲ以テ古責ニ謁シ在ス頃、カタハラニ有ル堂塔伽藍ノ信城寺ニ御休息アラセラレ、住僧其前日ノ夢想ニ本地阿弥陀如来ノ仏体ヲ久シク拝シ奉ル夢想アリ、今又黒衣ノ旅僧来ラセ玉フコト何ソ唯人ニ在シマサン竊鸞聖人ナランコトヲ知リ叮嚀ニ敬応々奉リ庶幾ハ今宵御止宿ト願ヒ奉ル、御承引アラセラレ其夜ハ信城寺ニ入ラセ玉フ、住僧喜ヒノ涙ニ咽ヒ漸ク茶飯ヲ差上ケ奉ル其志ノ厚キヲカンガミ玉ヒ夜モスカラ弥陀ノ本願ノ不思義ヲ御教化アラセラレ暫ク寝所ニ入ラセ玉ヘハ夢想ニ正身ノ阿弥陀如来ノ尊像アラハレ玉フ、翌日御発足ノ時何御手沢ヲト願ヒ奉レハ、其厚意ヲシロシメシ昨夜夢想ノ■上シニ本地阿弥陀如来ヲ拝シ奉ルトノ玉フ、住僧身ノ毛イヨタツテ聖人ノ入ラセ玉フ前晩夢想ニ阿弥陀如来ノ尊形ヲ拝シ奉コト奇瑞不思義ナリト喜ヒノ涙トトモニ御物語リ申シケル、然レハ汝カ夢想ト云ヒ親鸞モ昨夜ノ夢想ト云ヒ符合セルコト此ノ処ニアツテ末代衆生ノ化益ナリトテ是御木像ヲ御彫刻アラセラレ信城寺ノ住僧ヘ御形見トテ御授与アラセラレタル御木像ナリ、其後織田信長公合戦ノ砌リ彼ノ信城寺ヲ焼失ス、其昔シ佐々木佐ヱ門五郎ノ末弟塚根源左ヱ門尉道場ヲ建立シ草戸庵ト名ク、信城寺ノ本尊焼残ノ仏体幷ニ此御木像威神力ヲ顕シテ火難ヲノカレ仏体少モ損シ玉ハス、寄特不思義ノ尊像ナリト崇メ伝来セリ、然ルニ蓮如上人金ヶ森ニ御化導ノ砌リ草戸庵相続ノ住僧改宗ヲ願ヒ終ニ寂如上人ノ御代ニ庵号ヲ改メ正圓寺ト改号ス、其ノチ享保六丑ノ三月興正寺御門跡御兼帯所ト相定夫より当山ノ霊宝トナラセ玉フ、聖人御自作夢想ノ阿弥陀如来ノ尊像ナレハ不思義宿縁ニ由テ拝礼シ奉ルト存セラレ称名モロトモ大切ニ御礼ヲトゲラレマシウ
只今御縁起ヲ聴聞ノ通リ天台宗ノ住僧夢想ヲ拝シ玉ヒ、聖人夢想ニ拝シ玉フコト古ヘ信城寺住僧ヘノ御形見ナレト末世有縁ノ今日ハ、悪人女人ヲ助ケ玉フ、大慈大悲ノ尊形ナレハ偏ニ聖人御彫刻ノ御苦労ト存セラレ大切ニ拝礼イタサレマシウ
【意訳】
当檀上の御厨子の中に安置される尊像は、夢想の阿弥陀如来像である。親鸞聖人自ら彫刻された木像である。そもそもその起源を尋ねれば、往昔上田の里に天台宗の七堂伽藍の寺院が一宇あり、信城寺と呼んでいた。
嘉禎元年(1235)の秋、親鸞聖人が関東より上洛の際のこと。以前同門弟だった住蓮・安楽が念仏停止の命じられた折に、江州馬渕繩手にて死罪に行ぜられたので、同門の好みでその古跡に詣でた。その際傍らにあった堂塔伽藍の信城寺にて休息された。同寺の住僧はその前日の夢想に、本地阿弥陀如来仏を長いこと拝礼する夢を見た。今また黒衣の旅僧が来られ、いったい何者かとこそっと伺ってみると、親鸞聖人であることを知り、丁寧に応対した。住持は、願わくば今夜ここに止宿してくださいと願い出たところ、御承引いただき、聖人はその夜信城寺に入られた。住僧は喜びの涙にむせび、茶飯を差し上げた。その志の厚いことを思い聖人は夜ふけまで弥陀の本願の不思議についてお話し下された。
その後聖人が寝所に入ると、夢想に正身の阿弥陀如来が顕れた。翌日聖人が出立される時、何か記念の品を下さいと願ったところ、その厚意に感じ、昨夜夢想で本地阿弥陀如来を拝礼する夢を見た、と語った。住僧は身の毛が立って、自分も聖人が止宿される前の晩、夢想に阿弥陀如来を拝礼する奇瑞があり、不思議なことだと喜びの涙とともに語りだした。それでは汝(住僧)の夢想といい、親鸞聖人の昨夜の夢想といい、符合するのはこの場所にて末代まで衆生のために教化を続けよとの意味であろうと、親鸞聖人がこの阿弥陀の木像を彫刻し、信城寺の住僧へ形見として授与されたものである。
その後織田信長が合戦の折に、信城寺は焼失した。その昔、佐々木左衛門五郎の末弟にあたる塚根源左ヱ門尉が道場を建立し、草戸庵と名づけた。信城寺の焼け残った本尊像および、この像の威神力を顕現して火難を遁れ少しも損じてないことは奇特で不思議な尊像だとして崇めて伝来してきた。
やがて蓮如上人が金森に来られた際、当時の草戸庵の住僧が改宗を願い出て、寂如上人(西本願寺十四世宗主)の代に庵号を改め正圓寺とした。その後享保六年(1721)三月、興正寺御門跡の兼帯となり、以降本阿弥陀像は当山の霊宝となった。親鸞聖人自作の夢想の阿弥陀如来なので、不思議な宿縁によって拝されるものと思い、称名とともに大切にお礼をしましょう。
只今御縁起を聴聞した通り、天台宗の住僧が夢想を拝され、親鸞聖人も夢想にて拝された古き時代に、信城寺住僧への形見として下された阿弥陀像だが、末世有縁の今日では、悪人・女人を助なさる大慈大悲の尊像なので、ひとえに親鸞聖人が彫刻した御苦労を思い大切に拝礼いたしましょう。
【解説】
正圓寺に伝来する同寺および焼損仏の縁起。①と②の二種類あり、ともに大まかには内容が一致するが、それぞれにしかない記述もいくつかみられる。
①②とも内容がほぼ一致するのは次の通り。
古くは上田の地に天台宗信城寺なる寺院が所在し、ここに本尊阿弥陀如来像が安置される。親鸞聖人が関東よりの上洛途上、住蓮坊・安楽坊の墓所に詣でた際に阿弥陀如来が夢想に顕現したという。やがて織田信長の焼き討ちにより信城寺は焼失、本尊阿弥陀像は焼損する。これが今の焼損仏である。
その後、佐々木一族の塚根源左衛門尉が草戸庵を開き、信城寺の焼損仏などをこの庵に納めた。さらに蓮如が金森(守山市)に来た際、当時の草戸庵住持が帰依して改宗し、正圓寺と改めた。ただし、ここでは信長と蓮如の時代が錯綜しているようである。
次に①と②で内容が異なるもので、重要と思われる記述をみてみよう。
①では信城寺本尊阿弥陀像を聖徳太子の自作とし、②では親鸞聖人の自作としている。①は聖徳太子が天王寺建立の際、近江国瓦屋寺の山土で瓦をつくり、その折に縁あって上田の地で太子自ら彫刻した阿弥陀像としている。一方の②は親鸞聖人が関東から上洛する際、安楽坊・住蓮坊の墓所に参り、そばにあった信城寺に止宿した際、夢想により聖人自ら彫刻した阿弥陀像としている。
さらに①では建暦年中(1211~1213)の帝(順徳天皇)から、信城寺の住持が「上田氏」の姓を賜り、それが上田村の由来となったという点も注目される。これは②にはない記事であるが、上田氏(現在は植田氏)および上田村の由来を示しており、貴重な記事であろう。
②にしかない記述で重要なのは、草戸庵の改宗にかかわる部分である。①が蓮如(1415~1499)の時代に改宗して草戸庵を正圓寺と改めたとあるが、②では正圓寺への改名はその後の寂如上人(1651~1725)の時代だという。寂如は西本願寺第十四世宗主で、在位期間は寛文二年~享保十年(1662~1725)である。つまり現在に直接つながる正圓寺の成立時期が、江戸時代前期ごろとなる。さらに享保六年(1721)三月に興正寺門跡の兼務となったとあり、現在正圓寺ではこの年をもって中興としている。
本縁起の性格としては、末尾に「只今御縁起を聴聞した通り~」とあるように、他者に読んで聞かせるもので、そのための原稿ということになる。文体などから明治期のものであろう。こうした縁起は通常、勧進活動に用いられるものである。これは寺社などを再建するための資金を集めるため、担当者数人が手分けして各地を回り、人の多いところで出開帳し縁起を読み上げ、寺院の由緒や霊験に感じた聴衆らが些少の寄付金を出してくれるというもの。かつては勧進聖とか勧進僧といった専門の宗教者が担当して自由に全国を回っていたが、江戸後期にこれは禁止され(許可制になり、場所も限られた)、明治期以降は門徒ら一般人があたっていた。おそらく明治期に正圓寺が改修工事などの費用を捻出しようとしていたと思われる。
名称 絹本著色十字名号
員数 1幅
種別 未彫
所在 上田山正圓寺(興正派)
年代 室町時代
法量 縦92.4×横36.8 (含表具)縦181.3×横62.9
構造
掛幅装。金泥描。本紙は4鋪で縦につないでいる。各縦法量は上段から24.3、32.3、31.7、4.1㎝(計92.4㎝)。
形状
本紙中央に蓮台に乗った「帰命盡十方无㝵光如来」の十文字が記される。
状態
全体的に剥落がひどく、光明もわずかに確認できる程度である。十字名号の文字および蓮台の一部に、朱線による下描線が残る。十字名号の文字は、本来金泥字だったと思われるが、上から墨描など後世の手が入っていると思われる。
解説
本十字名号は、住持の話によれば『存覚袖日記』に記載のある貞治4年(1365)「蒲生下郡植田教西」に下賜されたもので、この教西は正円寺の歴代につながる人物とのこと。ただし正円寺縁起には出てこない話しで、正円寺の前身天台宗信城寺が信長の焼き討ちに遭ったという縁起の内容と、どのようにつながるかは不詳。ちなみに同日記の記事は「此本尊者木部錦織寺所預置蒲生下郡植田教西也、若千万之一有門徒違背事者、須奉返入本寺而已、貞治四年八月廿七日、木部房主下向和州之間、自留守吹挙之間、如此書与善喜了、教善下云々、民部法眼良円筆也」。
名称 石造天水桶
員数 1口
種別 未彫
所在 上田山正円寺(興正派)
年代 永正12年(1515)閏二月二十日
法量 縦57.1 横(最大)74.1 高38.3 厚10.1 (内口部)縦36.9 横54.1 深16.2
構造
花崗岩製。土台石に宝篋印塔の塔身部と思われるものを代用している。
形状
背面に刻銘「永正十二年/善久法橋/閏二月廿日」とある。土台石は下半が土中に埋まっているが、中央部に梵字一字が見える。
状態
天水桶として現在も使用されているが、大きな損傷はみられず良好である。
解説
本堂右側で用いられている石造天水桶。通常、天水桶は1対となっているものだが、本天水桶は1個のみが伝来している。法量も天水桶としては小さめで、あるいはこの天水桶はもと手水鉢であったものを代用している可能性もあろう。銘文から永正12年(1515)閏2月に善久法橋により寄進されたものとわかる。善久法橋については不詳。正円寺近くの篠田神社には、正安3年(1301)の市指定石造宝篋印塔(1基)もあり、古くからの石造品がよく残されている地域ともいえ、上田の歴史の古さを物語る文化財といえよう。
参考資料
①『大宝神社文書(現栗東市)』
住蓮安楽両上人伝説之控
伊勢国ノ住人戸波次良左ヱ門清次寿永ニ落髪シテ法号ヲ住蓮ト云、
安部判官盛久文治ニ出家シテ法号ヲ安楽ト云、同室ノヨシミヲムスヒテ吉水ノ法然上人ニ常随ノ師ナリ、承元ノコロ念仏ヲ称スルヲ悪テ近江国馬淵西ノ岡ニテ殺サレ玉フトキ奇瑞アリテ不思議ノ往生ナリ、両師共ニ母堂有テ都三條辺ニ居ヲ同ス、二師ノ死跡ヲ尋テ東シ近江国ニ下向ス、草津ト守山ノ中路ノ傍ニ小池有リ、コノ池ニ捨身ス、一人ノ母堂俗名朝子ト云、法号住然ト称ス、一人ノ母堂俗名時子ト云、法号安然ト称す、承元元年丁卯三月廿三日往生ナラント、
右ハ高田専修寺ニ古紙ノ表書トイヘル秘蔵ノ書有テ、上ノ如ク記ストナン伝説ナリ、巨細ハ高田一身田ニ行テ可尋也
右之書ハ閻魔堂ノ住人市村長左ヱ門殿ニ神応院禅覚致借用書写者也
元治元年
甲子六月九日午時
大宝天皇今宮応天太神宮
別当職小槻末葉
神応院禅覚書
太刀之縁起来由ハ別記ニ書ス
解 説
住蓮・安楽両上人伝説の控え
伊勢国の住人戸波次郎左衛門清次という人は、寿永年間(一一八二~八五)に落髪し法号を住蓮と称した。安部判官盛久は文治年間(一一八五~九〇)に出家、法号を安楽といった。同室のよしみを結び吉水にいた法然上人に随った。承元の頃(一二〇七~一一)念仏を称えるのを憎まれ近江国馬淵西の岡で殺されたとき奇瑞があり、不可思議な往生だったという。両上人は共に母が京都三条辺りに住んでいた。二人の母は上人の死に場所を尋ね近江国に向かい、草津と守山の中ほどにあった小池に身を投げた。一人は俗名朝子、法号を住然といい、一人は俗名時子、法号安然といった。承元元年(一二〇七)三月二三日往生。
右の話は、高田専修寺が秘蔵する古文書に記載されていると伝えられる。詳細は高田の一身田(専修寺が所在する)に行き尋ねること。
右の文書は閻魔堂住人の市村長左衛門殿に神応院(大宝神社を管理する寺院)の禅覚が借用のうえ書写したもの。
元治元年(一八六四)六月九日
大宝神社別当職である小槻氏の末裔、神応院の禅覚が記す。
※太刀の縁起や由来については別紙参照
②『大宝神社文書(現栗東市)』太刀由来書
江州栗田郡圓魔堂村某、佐々木判官吉実ニ奉公シ太刀取ノ役ニサシテ住蓮坊頸ヲ打、其太刀ヲ直ニ拝領シケルニ子孫ニ至テ其家災難止マス、人挙ッテ云ヘルハ是名釼ノトカシメナラント、依テ親戚ヨリ取計テ綣村大宝天王ニ奉納セリ、今ニ至テ赤地ノ錦ノ袋ニ入テ毎年祭礼ニ別当神応院ノ先ニ持セ渡ル事、
其方ノ柄ニ吉次ノ作トアリ
長サ三尺余刀ニヒの筋アル中ニホリ附タル銘アリ
(太刀の図が挿入される)
文政拾二年丑正月中旬之頃ニ而同国同郡糠田井村浄光寺殿ニ承リ、其時此通リ書附ヲ以相読ラレ候所、其節右ノ会((絵))図ヲ相写残シ置候
事也
神応院
禅定代(花押)
(太刀の樋にある銘文)
両ヒノ内ニ奉納御太刀延宝五巳年四月六日、願主圓魔堂村市村子孫、京五條橋通伊勢屋治兵衛トアリ
解 説
江州栗太郡閻魔堂村の某が佐々木吉実(義実)に奉公し、太刀取り役を命じられ住蓮坊の首を切った。その太刀を拝領したが子孫にいたってその家に災難が止まず、人々はこぞってこの太刀は銘釼であるために災難が続くのだと言う。よって親戚らの取り計らいで綣村の大宝神社に太刀を奉納した。今にいたり、太刀は赤地の錦の袋に入れられ、毎年の祭礼において別当神応院の先頭に立って渡御される。
この刀の柄に「吉次」の作と銘文がある。
長さは三尺あまり、刀の樋の筋に彫り付けられた銘文がある。
(太刀の図は省略)
文政一二年(一八二九)正月中旬頃、同国同郡糠田井村の浄光寺殿に聞き、その時このような書付けを読まれたので、右の太刀の絵図とともに写し残しおいたものである。
神応院禅定の代(花押)
(太刀の樋にある銘文)
両面の樋に「奉納御太刀、延宝五年(一六七七)四月六日、願主閻魔堂村の市村氏の子孫、京五条橋通り伊勢屋治兵衛」とある。
※太刀の「樋」というのは、刀身の重量を減らすため彫られた溝。